『ベクシル 2077年日本鎖国』〜さまざまな意味での問題作
まるで枕詞のようだが遅ればせながら『ベクシル 2077年日本鎖国』を見てきた。場所は新宿ジョィ・シネマ。呼び込みの「映画の日に見るならベクシルしかない」という声に押されて入ったが、すぐそばのミラノ座1ではエヴァの初日で劇場の前がざわめいていた。
この映画の存在を知ったのは3月に行われた東京国際アニメフェアの企画展「ロボアニEXPO」によってであった。『アップル・シード』の時もそうであったがアニメ業界にほとんど国内3D(CG)アニメの制作情報が伝わってこない。2Dアニメとはプレイヤー(製作者)やスタッフが大きく異なるためであると思うが、同じアニメとして括られていても実際にはかなり距離がある。
15時15分からの回を見たが入りは6割といったところか。20代〜30代の男性客がほとんど。3週目に入った映画としてはなかなかの入りであるが、おそらく映画の日で入場料が1,000円であったからであろう。全国185館でスタートし、興収は10日間で1億円に満たないとの情報なので興行的に成功とは言えない。
この映画はいい意味でも悪い意味でも実に多くの問題を含んでいる。ストーリー的な問題も大きいが、何よりも大きいのは3Dアニメ全般にいえるキャラクター(人間)表現のことであろう。わかりやすく言うとアニメにおける人間のリアリティの追求という問題である。これは2001年に公開された『ファイナル・ファンタジー』以来の大命題である。
アメリカの3Dアニメは主人公が人間というケースが少ない。ほとんど動物やモンスターであり、人間が主人公であってもキャラクターや動きはCartoon(トムとジェリーのような漫画映画)の様に誇張されている。リアルな人間の表現はパイレーツ・オブ・カリビアンのように実写に移行している(最初はアニメ企画であったがCG技術の進歩で実写になった)。
クールアニメと呼ばれる一連の2Dアニメによるリアリティ追求もあるが、実はリアリティ感を醸し出すため多くの演出がなされている。「嘘」を沢山つく方がリアル感を保証するという演出的逆説である。逆にモーション・キャプチャーで人間の動きそのまま取り入れた3Dアニメの方がむしろリアル感を感じないという皮肉がある。前を歩いていた人間が振り返るとアニメのキャラクター顔だったとでも言おうか、要は虚構に対する認識の問題がある。
ディズニーでは人間の動きをフィルムに収めそれをトレースしていた。初期の東映動画でも同様の手法が採用されていたが、それはそれで確かにキャラクターの動きは保証される。だが現在のディズニーではそういう動きを必要とされるものはアニメではなく全て実写となっている。その意味で日本でも何をアニメで表現すべきかについてそろそろ真剣に考える時期が訪れているように思えるのだが。
余談であるがこの作品の結末は戦慄すべきものであり「鎖国」というタイトルをつけている場合ではない。サラッと描かれているが『日本沈没』以上の深刻さでありその意味でもやはり問題作である。
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