Vol.28〜第一部手塚治虫とマンガ〜第二章手塚治虫成功の秘密
手塚治虫を育てた文化環境②〈紙芝居〉
戦前の子どもにとって漫画と並んでポピュラーなメディアであったのが紙芝居である。その魅力は何といってもその経済性にあり、自分の小遣いで見られるほとんど唯一のメディアであった。
当時の子どもにとっての娯楽は映画や落語や講談といった実演を見ることや、あるいは雑誌、漫画本、読み物本といった出版物で読むことあったがどれも20銭〜1円(400円〜2,000円)はかかるため、容易に子どもの手が届くものではなかった。
そんな中で、1銭、2銭(20円〜40円)の飴を買えば観られる紙芝居は、子どもにとって一番親しみやすい娯楽であった。そのため人形芝居から絵物語形式となった昭和5年頃から急激にそのニーズが増え、昭和8年には東京だけで2,000人を超える紙芝居屋がいるという状況であった。
最盛期には紙芝居を提供するアニメスタジオのような作画工房も20社ほどあり、各々60名ほどの画家を抱えながら一人で一日一組(14〜15枚から20枚程度)作画し月3,000組余りの紙芝居を生産していた(まるで現在のアニメスタジオのようである)。
これらの紙芝居は東京の紙芝居屋でつかわれたあとに、横浜、静岡、名古屋へと流れ、生産量が増えた昭和7年頃から大阪にも出回るようになった。従って手塚治虫が紙芝居を観たのもそれ以降と思われるが、年を追う毎に紙芝居は全国に普及していったのである。
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