Vol.18〜第一部手塚治虫とマンガ〜第二章手塚治虫成功の秘密
1−1−2 意外と豊かだった戦前の日本社会
戦前の「空気」
それでは手塚治虫を育んだ昭和初期がどのような時代であったのかその「空気」に触れてみたいと思う。昭和3年(1928年)生まれの手塚治虫がもの心ついたと思われる昭和6年前後からの世相・風俗の中から意外と思われるエピソードを中心に見てみようと思う。真っ暗史観によると戦前は暗黒の時代とされているが、そこには今の世相と通じる部分が結構多く、アホかいなと思わず突っ込みを入れたくなるような事件もあって、庶民の目線で見るとそれほど暗い時代ではなかったことが伺えると思う。
〈昭和6年/1931年〉
・ 田川水泡「少年倶楽部」で『のらくろ』の連載を開始する。また、この年「少年倶楽部」は発行部数38万という創刊号以来の記録を打ち立てた。(*読み物の比率こそ多かったが「少年倶楽部」こそ日本独自のスタイルであるマンガ雑誌のルーツであろうか)
・ 「容姿保険」が大流行。松竹女優の光三喜子顔などに5,000円(今なら1,000万円)、日劇ダンサーの河上しづ子と人形町のダンスホール「ユニオン」のダンサー前田貞子はそれぞれ3万円、2万円を自慢の足に掛けた。(*昔からこういうあざといPR手法があった)
〈昭和5年/1932年〉
・ 映画会社5社が『肉弾三勇士』を一斉に封切った。ラジオ・出版・芝居などの相乗効果により大ブームとなる。子どもたちの間で「肉弾三勇士」ごっこが流行る。(*元祖「メディア・ミックス」である)
・ 東京目黒競馬場で第一回日本ダービーが開催され、ワカタカが初のダービー馬に輝く。賞金一万円(*今でいうと2,000万円くらいか)。
・ 警視庁管轄下のカフェ、バーの数は7,511軒、女給22,779名と「国民新聞」が報道、〈エロ、エロ、エロの時代〉と伝える。(*女給は今で言えばキャバクラホステスといったところか。女性の職場がなかった時代の代表的職業でもあった)
・ 株式市場昭和3年以来の高値となる。
・ 永井荷風は昭和七年の世相をこう日記に描いている。「(銀座の裏通りの)夜もいつか十二時を過ぎしと見え、サロン春の明き灯は消え、女給と酔客の帰りを当込みの円タク幾輛となく横町に集まり来り。女給は三々五々相携えて各家路にいそぐが中に、或は客と打つれて横町の飲食店に入るもあり。横町の夜は一しきり亦賑やかになりぬ(『断腸亭日乗』昭和7年7月20日)」(*今と変わらない銀座の風景である)。「(銀座からの)帰途芝兼房町の巡査派出所に人多く佇立むを見て、何事ならむと立寄り、様子をきくに、女子に化けたる男この辺のカフェーに女給となりて住込みゐたる事露見し、派出所より愛宕町の警察署に引かれ行くところなり。今の世の中はますますわけの分らぬ世の中とはなれり(『断腸亭日乗』昭和7年8月17日)」(*今でも新聞記事の価値はあるだろう)
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