Vol.48〜第一部手塚治虫とマンガ〜第二章手塚治虫成功の秘密
手塚治虫を育てた地域環境③〈宝塚〉〜その4
宝塚会館で踊って、宝塚ホテルで泊まる
このような状況はその当時言われた「宝塚会館で踊って、宝塚ホテルで泊まる」という言葉に集約されるが、実はその背景には大阪府下でダンスホールがほとんど閉鎖されてしまったという事情があったのだった。
大正末期における大阪のダンスホールはむしろ東京より盛んであった。大阪府内には20余りのダンスホールがあり、ほとんどが蓄音機によるレコード演奏であったが、ダンスバンドを入れたホールでは1円(2,000円〜3,000円)の入場料をとっても人々が押し寄せたため風紀の乱れが問題となり、昭和2年末にはほとんどのダンスホールが閉鎖に追い込まれた。
すると、規制の目を逃れるために大阪との境界線にある所へ次々とダンスホールがつくる人間が現れたのである。兵庫県の杭瀬、尼崎、夙川、宝塚、奈良県の生駒などに突如として現れたダンスホールは大阪のダンスマニアを引き寄せ賑わった。宝塚会館誕生の裏にはこのような時代背景は潜んでいた訳であるが、これも急速に発展しつつある宝塚の勢いを象徴するエピソードであろう。
豊かな自然と最新の文化が同居している郊外のユートピア。手塚治虫の祖父太郎が隠居のための選んだ宝塚は孫にとってまことに恵まれた地域環境であったようだ。
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