Vol.49〜第一部手塚治虫とマンガ〜第二章手塚治虫成功の秘密
手塚治虫を育てた環境④家庭環境〜その1祖父手塚太郎
手塚治虫が育った家庭環境の基礎をつくったのはこの項で述べる祖父太郎であると思われる。祖父から直接的な影響を受けた訳でもないだろうが、手塚の恵まれた知的・経済的環境を築いたという点では非常に重要な役割を果たしていると推測される。
この知的環境についてはもともと陸軍軍医であった曾祖父の手塚良庵から受け継いだと推測されるが、父のあとを継がず法律家となった手塚太郎が手塚家に及ぼした影響は大きいと思われるので、まずそこから探ってみたいと思う。
司法省法学校入学
手塚太郎は文久2年(1862年)江戸に生まれた。『陽だまりの樹』に登場する父良庵は医者であったが西南戦争に従軍して赤痢にかかり明治10年(1877年)に亡くなる。16歳の太郎は一時的に困窮したとあり、今と違って医者の家庭であっても決して経済的に万全の環境ではなかったようだ。
太郎がなぜ医学の道に進まなかったのか知る術はないが、十代から東京外国語学校(のちの東京外国語大学)でフランス語を学んでいた事実を見ると、明治維新以降の欧化主義の影響を受け、それによって立身をは図ろうしていたのは確かであろう。
明治13年(1880年)、外国語学校を主席で卒業した太郎は司法省法学校第三期正則科に編入学する。これはフランス法の信奉者である江藤新平の肝入りで司法省内に設置された司法官養成のための法学校で、修業期間八年の正則科二期生に太郎は編入することになった。ここは4年間の修学期間に4分の3が脱落するという猛烈なエリート養成校で将来の日本を背負って立つ数多の人材が集っていた。
太郎と同じ第二期生には将来の宰相原敬、近代的ジャーナリストの嚆矢陸羯南(くがかつなん)こと中田実(原敬と中田は「賄(まかない)征伐事件=良の食事内容に対する広義事件」で明治12年に退学処分になっている)、のちの大審院長(最高裁判所長官)になった鶴丈一郎、第三期生には日銀総裁水町袈裟六、明治大学学長木下友三郎、四期生には総理大臣若槻礼次郎など錚々たるメンバーがいたが、ここで手塚太郎は自分の運命を決定づける人間と巡り会う。それはフランスから司法省顧問として招かれていた法律学者ボアソナードとの出会いであった。
コメント