Vol.50〜第一部手塚治虫とマンガ〜第二章手塚治虫成功の秘密
手塚治虫を育てた環境④家庭環境〜その2祖父手塚太郎
ボアソナードの薫陶、その光と影
パリ大学助教授であるボアソナードはその時55歳、司法省で法学教育を行いながら正院法制局、外務省顧問、元老院、陸軍省などの顧問も勤め、さらに私法の基本法として最も重要な民法典の草案起を委託されるという来日以来最も多忙な時期にあった。
ボアソナードが日本の学生に対する教えで最も強調したのは、ナポレオン法典の基本である「法の前の平等」「私的所有権の不可侵」「個人の自由」「信仰の自由」といった個人を尊重することで、「何人も害すなかれ」という自然法の精神と重要性を事ある毎に法学校の生徒に説いた(ボアソナードは日本政府に対し初めて拷問禁止を強く訴えた人道主義の法律家でもあった)。
このような師のもとで法学校も主席で卒業した太郎であるが、その先には限りなく不透明な未来が待ち受けていた。
明治初期の司法界は江藤新平の強力な後押しによってフランス法を取り入れようとする機運が高まっていたが、司法卿であった江藤は征韓論に破れて下野し、明治7年に佐賀の乱を起こし捉えられて斬首刑となった。江藤の次に司法卿になった大隈重信はイギリス法の推進者で東京帝国大学法学部にイギリス法学派を起用したため、司法界は司法省法学校のフランス法学派と東京帝大のイギリス法学派に分かれてしまった。
ところが三権分立や議院内閣制を唱える両派に対し、岩倉具視、伊藤博文、井上穀らはプロシア型の立憲君主制を目指して対立、薩長閥の力をバックに大隈とその一派を追放してしまった。これがいわゆる「一四年の政変」である。
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