Vol.51〜第一部手塚治虫とマンガ〜第二章手塚治虫成功の秘密
手塚治虫を育てた環境④家庭環境〜その3祖父手塚太郎
ボアソナード法典の行方
「一四年の政変」により伊藤博文が参議兼参事院議長として政権の中枢に座っため、司法界全体も一気にドイツ法学派にシフトしてしまった。そのあおりを食った司法省法学校は完全に傍流となり第二期生を輩出しただけで、明治18年廃校となり東京帝大に吸収された。
第一期、第二期の卒業生58名は司法省で浮いた存在となり、ある者は中央から離れ地方の判事や検事として任官、またある者は明治法律学校(明治大学)や和仏法律学校(法政大学)を設立するなどそれぞれの道を歩むことになったのである。
また、またボアソナードも10年間に渡って心血を注いだ民法、いわゆるボアソナード法典が明治23年(1980年)公布されたものの4年間に渡る「民法典論争」の果てに結局施行されないまま実質的に廃案となった。失意の内にボアソナードは明治28年母国へと去っていったが、その誠意溢れる人柄と法律に対する情熱は万人の認めるところであり、外国人として初めて勲一等瑞宝章が贈られたのであった。
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