Vol.52〜第一部手塚治虫とマンガ〜第二章手塚治虫成功の秘密
手塚治虫を育てた環境④家庭環境〜祖父手塚太郎4
大阪への赴任
司法界におけるこの変化はもちろん手塚太郎にも大きな影響を与えた。
司法省法学校を卒業した太郎はその後、母校、東京法学校、東京帝国大学の講師などを務めたあと千葉始審(地方)裁判所に2ヶ月ほど勤めたのち、明治19年(1886年)に司法省法学校の先輩である井上操に呼ばれて大阪始審(地裁)へ赴き、ここで6年間に渡る判事生活を送ることになる。
その在任期間中に法学校時代の同士とフランス法学を伝えるべく関西法律学校(関西大学)の創立にも参加することになるが、晩年太郎が生まれ育った東京ではなく、関西に終の棲家を構えることになったのもこの赴任の影響があると思われる。
その後、太郎は大津地裁検事正、函館地裁、仙台地裁、大阪地裁と地方任官を務め、名古屋控訴院(高裁)検事長となり大正12年1月に長崎控訴院院長の地位で定年を迎えることになるのだが、裁判官としての暮らし向きはどうであったのだろうか。
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