アニメの仕事6〜宮崎駿氏の視点
『出発点1979年〜1996年』(徳間書店/2600円税別)
宮崎駿氏には『出発点1979年〜1996年』という著書があるが、日本のアニメに対する洞察は鋭い。例えば日本のテレビアニメを中心とする過剰表現について氏は次のように的確に論評している。
「登場人物のデザインと性格だけではなく、空間と時間も徹底的にデフォルメされた。投手の手を離れた白球が、捕手のミットにたどりつく時間は、一球に込められた情念によって際限もなく延長され、ひき延ばされた瞬間が迫力のある動きとして、アニメーターにより追求された。せまいリングが広大な戦場として描かれるのも、その主人公にとって戦場に等しいのだ、というわけで正当化された。おかしなもので、語り口がどこかで講談と同じになっていった。間垣平九郎が愛宕山の石段を馬で馳せ登るくだりの表現と、これらのアニメーションの語り口のなんと似ていることか」(108p)
もしスポーツや学園アニメなどを「口演」するなら確かに講談そのものである。またロボットアニメなどのバトルシーンも考えてみれば講談調である。若い世代は講談など聞いたことがないであろうが、日本のアニメには伝統的な大衆文化の影響が垣間見られるである。
また日本のマンガとアメリカの映画に対する文化考察に関する注目すべき見解も見受けられる。
「アメリカの映画と日本の映画を比べて、日本の映画はダメだって言われますが、文化的に全体を考えて、例えば、アニメーションの世界で言いますとディズニーの『美女と野獣』というビデオは、アメリカで二千万本売れたです。アメリカの人口は日本の二倍ぐらいしかいませんから日本では一千万本売れたということと同じなんですよ。その時ハッと気がついたんですけど、『少年ジャンプ』は毎週六百万部売れてるっていうんで、何だ同じじゃないかと思った(笑)」
「アメリカ社会で、いちばん社会全体を繋いでいるのは、マンガじゃなくて彼らにとっては映画なんです。日本は多分、テレビとマンガがそれを担っていて、映画の方は隅っこの方にいっちゃったということだと思うんですね」(134p)
言い得て妙であるが、日本のビジュアル大衆文化はマンガに集約され、一方アメリカは映画がその位置を占めている。氏が言うように日本の大衆的エンタティンメント・コンテンツの頂点にはマンガがあり、そこからアニメやテレビドラマ、映画が派生して行く。一方、アメリカでは映画が頂点にあり、ついでテレビアニメやコミックといった二次著作物が発生するが、そこが日米の映像エンタティンメントの大きな違いと言えるであろう。
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