海部美和『パラダイス鎖国』(アスキー新書724円+税)3〜日本語の歌詞はロックに向かない
かの『ニューミュージック・マガジン』1971年5月号に「日本のロック情況はどこまで来たか」という対談が掲載されている。参加者は音楽評論家の福田一郎と小倉エージ、ミッキー・カーティス、内田裕也、はっぴいえんどの大滝詠一、松本隆、細野晴臣、ワーナーレコードの折田郁造、雑誌の主宰者である中村とうようである。
日本語でロックを唄ったはっぴいえんどのファースト・アルバムが『ニューミュージック・マガジン』レコード賞の“日本のロック賞”を取ったことに対して内田裕也が意義を唱えたことから日本語ロック論争がはじまった。
この対談で松本隆が、「ぼくらが日本語で謳っているのは、曲を作るのに英語の歌詞が書けないという単純な理由なんです。日本語にのせるのに苦労しているのは事実です」と発言しているように、この当時ロックは英語で唄われるのが基本であった(例え日本人がつくった曲であっても)。そういった状況を踏まえた上での控えめな発言であるが、実際は最初から日本語で挑戦するつもりであったことは後のインタビューなどで明らかになっている。
こうした松本の発言に対して福田一郎は、「とにかく、日本語もロックのリズムに乗るということを証明してくれたことだけでもすごく大きい」と称賛している。ミッキー・カーティスも「なんか普段話しているような言葉がそのまま歌になって、バッチリ乗ってるってとこが、すごくいいよね」と手放しで褒めている(私としてはその前のゴールデンカップスの方が一足先にロックのリズムに日本語を乗せていたと思うが、おそらくグループサウンズ、つまり歌謡曲と見なされ無視されたようだ。確かにこの頃ロックは神聖にして犯すべからずという気風があった)。
これに対して、ワーナーレコードの折田郁造は、「言葉が聞きとりづらいという欠点もあるし、完全に日本語をロックに消化しているとはいえないだろうな」と否定的である。この発言の裏には、「ぼくのばあいは、インターナショナルに成功したいという気持ちが大きいので、やっぱり英語でやりたいですね」という気持ちが隠されていおり、この折田発言こそが当時ロックを指向していた人間の公約数であった(そういえば1982年代にクロスウィンドというバンドのアルバム・リリースを手伝った時に、日本語のロックが好きだといったらリーダーの小川銀次に珍しいですねと言われたことがある。1980年代前半でも洋楽の方がまだまだ優位であったのだ)
そこに他の仕事から駆けつけた内田裕也が現れる。
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