Vol.43〜第一部手塚治虫とマンガ〜第二章手塚治虫成功の秘密
手塚治虫を育てた地域環境①〈大阪〉〜その2
未来都市大阪
しかし、急速な工業化による弊害も至る所で現れていた。人口の過密化や工場の排煙などで環境の悪化が深刻な問題となった大正12年(1923年)、大阪市会において満場一致で視聴の第一候補者に推薦されたのが、東京高等商業学校教授から大阪市高級助役に招かれ、「大大阪の恩人」と市民から敬愛され関一(せきはじめ)であった。その後内務大臣が天皇に上奏裁可を得て第七代大阪市長となった関は、大正10年(1921年)からはじまった第一次都市計画事業の指揮を執ったが、その目玉は大正15年開始の梅田から難波まで一直線に結ぶ幅24間(43.2m)、長さ4,470mに渡る御堂筋の建設であった。
この工事が終わったのは昭和12年(1937年)であるから実に11年にも及んだ訳であるが、完成した御堂筋は地下鉄と共に大都市大阪の象徴となった。沿道には阪急ビルディング、大阪ガスビルディング、そごう百貨店、大丸百貨店、南海ビルディングなど当時の最先端をゆく「高層ビル」が建ち並ぶ風景はまさしく「未来都市」でモダニズムの粋と呼べる建築物が沢山あった。
その中でも手塚の記憶に深く刻まれているのは昭和12年(1937年)に出来た東洋初、世界で25番目のプラネタリウムを併設した大阪電気科学館であった。この建物は手塚のマンガにもしばしば登場することで知られているが、館内には電気の性質や発電の仕組、科学的なトリックなどが随所に展示され、一回で虜になった手塚は何度もここを訪れたという。このように、大阪が手塚治虫描くところの未来都市のイメージに寄与している可能性は非常に高いのである。
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