Vol.44〜第一部手塚治虫とマンガ〜第二章手塚治虫成功の秘密
手塚治虫を育てた地域環境②〈神戸〉〜その1
手塚治虫は阪神間モダニズムの申し子
手塚治虫は画風を含めハイカラ指向であったことは多くの人々が指摘するところである、それにはいわゆる「阪神間モダニズム」が大きく影響としていると思われる。
「六甲山系をバックに広がる阪神間は明治以降、鉄道網の整備に伴って発展した。阪急電鉄の前身『箕面有馬電気軌道株式会社』は一九〇七(明治四〇)年に創立され、三年後には宝塚線の営業を開始。沿線は別荘地や郊外住宅地として開け、大阪の商人らとともに、芸術家や外国人が移り住んだ。西洋文化の浸透とともに美術、文学、音楽、娯楽といった独特の『阪神間モダニズム』が芽生えた。手塚が宝塚で過ごした二十年間は、ちょうどその隆盛期と重なった。しゃれた街並みと伝統に縛られない自由な発想。阪神間の文化に詳しい夙川学院短大教授の河内厚郎が『手塚はモダニズムから育った最初の天才で、まさに申し子』と断言する」
(「手塚治虫のメッセージ」/神戸新聞2002年1月6日)
とあるが手塚治虫はまさしく「阪神間モダニズム」の申し子である。同世代には関西学院で学んだ高島忠夫(昭和5年/1935年生まれ、神戸市出身)や藤岡琢也(姫路市出身)いるが、高島はこの年代の男性としては珍しいミュージカルのセンスを持つ俳優、藤岡は日本有数のジャズコレクター(レコード針が欠乏した戦争中は自分の小指の爪を削ってジャズを聴いたというエピソードを持つ)という典型的モダンボーイなのである。
また、その上の世代としてはケンブリッジ大学に留学し、敗戦後は吉田茂の懇請でGHQとの重要な交渉役を担った白州次郎(明治35年芦屋市出身)や、日本を代表する映画評論家であった淀川長治(明治42年神戸市出身)も「阪神間モダニズム」を体現するモダンボーイであるが、この文化的ルーツは何れも神戸から発せられる「ハイカラ性」にあった。東の玄関横浜と並ぶ日本の西玄関である神戸からダイレクトに入ってくる西欧文化がそのモダニズムの源泉であったのだ。
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