Vol.45〜第一部手塚治虫とマンガ〜第二章手塚治虫成功の秘密
手塚治虫を育てた地域環境②〈神戸〉〜その2
大阪、神戸、宝塚トライアングル
神戸については語るまでもないだろうが、横浜や長崎と並んで日本のエキゾチズムを代表する都市である。日米修好通商条約によって慶応3年(1867年)の兵庫開港によって活気を取り戻した神戸は、20数カ国の領事館が置かれ欧州航路、アジア・アフリカ航路の出発点であったため、英国、ドイツ、フランスといったヨーロッパ系や清国の居留民が多かった。
そして、開港時2万人だった人口も明治22年(1889年)の市制施行時には13万人に増加。大正9年(1920年)には須磨町を編入して60万に増えたが、このような街の膨張に伴い、明治7年に開通していた大阪〜神戸間の官営鉄道に続き、明治39年(1906年)には阪神電車が出入橋〜神戸間の営業開始、続いて阪急電鉄が明治43(1910年)に梅田〜宝塚、石橋〜箕輪、大正9年(1920年)十三〜神戸、大正9年(1920年)に宝塚~西宮北口間が開業し、大阪と神戸と宝塚を結ぶトライアングルが完成し阪神間モダニズムが育ってゆくのである。
手塚治虫は、西欧のモダンな文化の影響を色濃く受けたこのトライアングルでまさにその少年・青年期を過ごしたのであった。
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