Vol.47〜第一部手塚治虫とマンガ〜第二章手塚治虫成功の秘密
手塚治虫を育てた地域環境③〈宝塚〉〜その3
東洋一のダンスホール
「郊外のユートピア、中産階級の楽園」であった宝塚であるが、そこには温泉を中心とするリゾート地という側面も持っており、その種の土地に付きものの歓楽的要素も併せ持っていた。一口に歓楽的要素と言っても色々あるが、手塚が生まれた頃、宝塚の夜の娯楽として最も人気があったのはダンスであった。
そして、そのブームの中心にあったのが昭和5年(1930年)に宝塚ホテルが中州二丁目に開業したのがダンスホール「宝塚会館」である。約100坪という広さのダンスフロアーは一度に300組600人が踊れ、その豪華な内装と最新の設備から「東洋一の舞踏の殿堂」と評された。また、そこで演奏していたミュージシャンも当時としては超一流のジャズ・ミュージシャンばかりで、有名なフィリピンのコンデ三兄弟の長兄をはじめとし、ニューヨークのエス・クラリネットのコンテストで二等を取ったヴィヴィ・コンデのバンドがオープニングから一年間も出演していた。
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