Vol.46〜第一部手塚治虫とマンガ〜第二章手塚治虫成功の秘密
手塚治虫を育てた地域環境③〈宝塚〉〜その2
宝塚を代表する二つの文化施設
宝塚を代表する文化建造物を代表する宝塚劇場は言うまでもなく宝塚歌劇団のホームグラウンドであるが、その建設は大正13年(1924年設立)にさかのぼる。4,000名を収容したこの劇場は、昭和12年(1937年)竣工の「東洋一の五千人劇場」と呼ばれた浅草国際劇場のキャパ3,860名(一説には4,000人~5,000人収容)を上回り東洋一の規模を誇っていたが、惜しくも昭和10年(1935年)に焼失してしまった。徒歩数分で行ける距離にあったこの劇場を手塚少年は何度も訪れている。
そして、もうひとつ宝塚劇場と並んで宝塚のランドマークであったのが宝塚ホテルである。大正14年(1925年)に誕生したこの8階建ての高級リゾートホテルは、宿泊・飲食だけではなく、イギリスの大学や軍隊などの親睦団体である「Gentlemen's club」に範を取った「宝塚倶楽部」がある文化施設であった。
チェスなどの趣味に興じながらお茶を飲んだり食事を取るだけではなく、ゴルフやポロのスポーツクラブなども併設されているこの種の社交クラブは日本では馴染みが薄く、わずかに福沢諭吉が提唱した慶應義塾出身者が中心の「交詢社」(1880年)、井上馨が政財界のトップクラスに呼びかけた「東京倶楽部」(1884年)、旧帝国大学の出身者と教授、学長がメンバーの「学士会」(1886年)が知られている程度であったが、宝塚倶楽部は阪急沿線に住居を構える中産階級、ホワイトカラー層や地元の名士を対象とした社交の場であり、飲食はもちろん、囲碁・将棋・ビリヤードやテニス、弓道、ゴルフなどのスポーツで交流を重ねる場であった。
手塚の父が宝塚倶楽部に所属していたかどうかは不明であるが、一家がしばしばホテルで会食を楽しんだのは確かであり、その記憶もあってか手塚はこのホテルで結婚式を挙げているほどである。
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