Vol.56〜第一部手塚治虫とマンガ〜第二章手塚治虫成功の秘密
手塚治虫を育てた環境④家庭環境〜父親手塚粲(ゆたか)その1
手塚家の文化環境をつくった手塚粲
少年期の手塚治虫がマンガ家になる上で恵まれた家庭環境にあったと指摘する人間は多い。世界の名作から落語や漫画本などの豊富なライブラリー。地元の劇場だけではなく、大阪まで出かけて封切洋画映画を見られるだけではなく、当時としては非常に貴重であったムービーカメラや映写機を所有していた。こうした文化環境をつくり上げたのが手塚の父粲である。
手塚粲は父が仙台地裁に赴任している1899年(明治33年)に生まれた。その時手塚太郎は37歳、生まれたばかりの長男を亡くし、娘ばかり3人続いたあとにようやく生まれた男の子である。その喜びはいかばかりであったろう。
粲は父の転勤に伴って各地を転々としたあと、大正7年(1918年)中央大学法学部に入学する。昭和初期、小学校6年を卒業して2年間の高等小学校に進む者は100人中20人程度、旧制中学に進学するのは5人、旧制高校を経て大学へ進むのはわずか2、3名に過ぎなかった時代である。
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