Vol.72〜第一部手塚治虫とマンガ〜第二章手塚治虫成功の秘密④
マンガ雑誌という特異メディアの存在〜その1
日本のマンガの発展はマンガ雑誌と共にあった
手塚治虫が子どもにその存在を知られるようになったのは『宝島』などの単行本によってであったが、本当の意味で全国区になったのは昭和25年から「漫画少年」に連載した『ジャングル大帝』がきっかけであった。
それ以降、一貫してマンガ雑誌を主戦場として作品を発表し続けたが、この手塚の例を見るまでもなく、マンガを大衆娯楽の頂点に押し上げた最大の原動力はまぎれもなくマンガ雑誌にあり、それ抜きに戦後の大発展は語れないであろう。
二つのマンガ市場
戦後すぐのマンガ産業は単行本と雑誌という二つの市場に支えられていたが、最初に立ち上がったのは前者であった。
1972年に発行された『国立国会図書館児童図書目録(下)』には明治以降1968年までに国立国会図書館が所蔵したマンガ、絵本類が分類されているが、それを見ると1940年代後半から50年代半ばにかけて多くの会社がマンガ出版に参入したことがわかる。娯楽に飢えた時代であったためであろうがつくれば何でも売れるという時代であったのだろう。
例えば、昭和22年(1947年)におけるマンガ出版への参入状況はまさに雨後の竹の子状態である。参入した会社の中には講談社や集英社といった大手から、わずか数年で消えてしまったような小さな出版社の他に、おそらく国会図書館に寄贈しなかったような会社もあると思われるので実際はもっと多いと思われる。
そういった出版社が40年代後半から50年代前半にかけて刊行していたのはほとんどが赤本と呼ばれる類の単行本であった。つくる先から売れたこともあり、一時は全盛をきわめた単行本文化もその版元の多くに再生産の思考がなかったためか、60年代に入ってテレビや大手出版社のマンガ雑誌に人気を奪われ急速に市場が縮小して行くのである。
コメント