Vol.80〜第一部手塚治虫とマンガ〜第二章手塚治虫成功の秘密
手塚スクールの形成〜その5
戦後のマンガ界は手塚治虫を中心とした「マンガ維新」の時代だった
手塚治虫は改めて述べるまでもなく日本のマンガとアニメの興隆を生み出した人間である。しかしながら、戦後マンガが一大産業にまで発展したのはもちろん手塚一人だけの力ではない。奇跡的と言ってもよいほど手塚に続く優秀な人材が次々と現れた。その意味で、敗戦から現在に至る数十年は、寺田ヒロオが言った「まんが維新」(『まんが道7』藤子不二雄A/中公文庫コミック版)の時代だったのではないだろうか。
明治維新は「広義には天保の改革から明治憲法成立の明治22年まで」(小学館スーパー・ニッポニカ)の約60年間を指すが、その時代に歴史に残る人物が数多く登場した。それと同じように、敗戦後のマンガ界にも手塚を初めとして実に多くの才能ある人材がマンガ界に現れた。
そして、その中心となった手塚が一時住んでいた椎名町にあったトキワ荘であるが、その存在は吉田松陰を塾頭に、高杉晋作、久坂玄瑞、前原一誠、伊藤博文、山県有朋、品川弥二郎などの明治維新を支えた人材を輩出した「松下村塾」であったと言えるであろう。
塾頭の手塚をはじめとして、部屋数たった十数室の小さなアパートに寺田ヒロオを筆頭に手塚を慕って藤子不二雄、石森章太郎、赤塚不二夫、水野英子、よこたとくお、鈴木伸一、森安なおや、つのだじろう、長谷邦夫、坂本三郎、園山俊二、永田竹丸などが集い、あたかも「梁山泊」のような様相を呈していたが、まさにマンガ維新の拠点であった。
夭逝した吉田松陰と違い、手塚は長らく第一線で活躍し日本のマンガ産業の成立と発展に大きく寄与した。その意味で手塚治虫という存在は吉田松陰であるのと同時に、明治政府を形成した大久保利通や伊藤博文のような役割を果たしていたと言えるであろう。
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