〈手塚治虫とアニメ〉アニメの繁栄を築いた手塚治虫
手塚治虫以前のアニメ3〜焼け跡で手塚治虫が感動した日本のアニメ
皮肉なことだが日本のアニメが大きく発展するのは戦争に突入してからである。軍からいわゆる「戦意高揚」アニメの発注が来るようになったためであるが、これらの作品には予算や当時貴重品だったフィルムなどに制約がなく、制作者は思う存分アニメをつくることができた。その結果、戦時中に多くの傑作アニメが誕生したのである。
例えば、1942年(昭和17年)に公開でされた松竹の『くもとちゅうりっぷ』は、「日本のアニメーションの父」正岡憲三が脚色・演出・撮影を手がけたクオリティの高い短編で、戦前の最高傑作のひとつと言われている。この作品は軍からの発注ではないが、アニメ業界全体が底上げされた中でつくられたものであり、日本の制作水準が上がって来ていることを伺わせるものとなっている。
また、終戦の年である1945年にも最高傑作のひとつといわれる作品が公開されている。それは、政岡の弟子であった瀬尾光世演出・撮影による『桃太郎・海の神兵』で、その映画を見た手塚治虫は感動の余り涙が流れて止まらなかったと記している。
「ぼくは焼け残った松竹座の、ひえびえとした客席でこれを観た。観ていて泣けて泣けてしょうがなかった。感激のあまり涙が出てしまったのである。全編に溢れた叙情性と童心が、希望も夢も消えてミイラのようになってしまったぼくの心を、暖かい光で照らしてくれたのだ」
(『手塚治虫エッセイ集1』 講談社刊)
手塚は「おれは漫画映画をつくるぞ」と誓い、「一生に一本でもいい。どんなに苦労したって、おれの漫画映画をつくって、この感激を子供たちに伝えてやる」と思ったのである。手塚はそれまで洋画派で邦画、特に日本の漫画映画に対してはいいイメージを持ってなかったが、戦争中に感動できる日本製アニメがつくられていたのである。
このように、日本のアニメは戦時中に既に相当のレベルに達していたが、戦争が終わると再び勢いを失ってしまった。物資不足などの問題もあったがやはり日本のアニメ界には事業を組み立てるプロデューサーがいなかったことに尽きるであろう。
日本は有能な「制作者」はいても、ディズニーのような「製作者=プロデューサー」が不在だった。だから軍がスポンサーとなった時以外、目だった作品を残せなかったのである。その日本にアニメが産業として浮かび上がってくるのは、戦後10年も経過してからのことであった。
コメント