〈手塚治虫とアニメ〉
アニメの繁栄を築いた手塚治虫
手塚治虫以前のアニメ2 トーキーの時代
1929年(昭和4年)頃からディズニーを中心とするトーキー漫画映画が輸入されるようになって日米の差は決定的になる。
国産アニメは動きが劣っている上に音も出ない。おまけに仕入れ価格が倍以上と来ている。当然の如く国産アニメは次先細りになってゆくが、そこに一条の光明が指す。それは昭和8年に起こった映画国策運動であった。
この運動は緊迫感高まる時勢を考え、国民教化のために映画館で教育映画を強制的に上映すべきであると世の識者が唱えたものであった。これに対して大手の映画会社が反応し、PCLやJOトーキー(両社共に後の東宝)では教育映画制作のための漫画部が設立され、零細企業だったアニメ制作会社の人員を吸収した。
また当時最大手であった松竹も日本のアニメの父といわれる政岡憲三の政岡映画製作研究所と提携しトーキー漫画映画を積極的に配給するようになった。このように、教育・教訓映画といった映画国策運動や、昭和9年からはじまった国産フイルムの大量生産などによって日本のアニメは大きな動きを見せはじめるのである。
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