アニメアワード功労賞顕彰者その1
別所孝治 赤塚不二夫 藤子不二雄A
今年も好例のアニメ産業に対して多大な寄与された方々を顕彰する功労賞があった。5回目を数えるが毎年この賞の時間が和やかなムードに包まれるは、受賞された方に対する敬愛の念が会場の人々から発せられるからであろう。
まずテレビアニメの創生期にフジテレビの局プロとして活躍された別所孝治さん。なにせ『鉄腕アトム』のプロデューサーである。おそらく日本初のテレビアニメシリーズを担当したその苦労は想像を絶するものがあったろう。納期に間に合わないとなると自ら制作会社に乗り込んで手伝ったという。『あらいぐまラスカル』『母をたずねて三千里』『銀河鉄道999』『マジンガーZ』といったプロデュース作品を見るとまさにテレビアニメと共にその人生を歩まれたといっても過言ではない。2006年惜しくも病を得て逝去。当日は奥様と高齢のお母様が壇上に登場された。
昨年亡くなった赤塚不二夫についてはテレビでも度々紹介されたこともあり説明するまでもないで、個人的な想い出について多少述べてみたい。記憶が違っているかも知れないが、確か「おそ松くん」の連載が開始された号を見ているはずである。多分7歳頃であると思うが、へんなマンガが出てきたという印象であった。それほど夢中になった記憶もないのだが、六つ子の名前を記憶し早口言葉で言って友達に受けようとした記憶があるので、確実に影響を受けていたのであろう。
その頃の子どもたちの間で「おそ松くん」の影響が顕著に表れているのは、もちろん「シェー」であろう。私より少し下の世代は必ずシェーのポーズの写真があるはずである。私にはないが(あるかも知れないが)、今でも驚くとシェーと言ったりする(「だょーん」もしばしば口にする)。また、学校には必ず「おそ松くん」の登場人物の名前をつけられた子どもがいた。私の小学校には場合はチビ太とデカパンがいたが、デカパンは佐々木という女の子であった。おそらく、その当時どこの学校でもチビ太やイヤミがいたはずである。こう考えるといかに赤塚不二夫の刷り込みが深いかがよくわかる。その意味でもマンガ・アニメ界における大功労者であろう。当日は娘さんが受賞された。
藤子不二雄A先生についても語るまでもないであろう。受賞された時のスピーチはかの有名な「ミドロヶ沼の巻」についての話であった。当事者の口から実際聞いたのでやはり事実であったと確認されたが、やはりマンガ家とアニメーターでは本質に違っているのだなと感じた。特に赤塚アトムが強烈だったと述べられていたが、自分の個性を打ち出さなければならないマンガ家、キャラクターの個性を崩さないで描かなければならないアニメーターは根本的に異なる部分があるのだろう。手塚治虫が一時間で数十枚ものアトムの動画を描けたのは原作者であったからだろう。それにしてもA先生はお元気そうであった。菜食主義はやはり身体にいいのであろうか。
コメント