『私の藝界遍歴』(森岩雄/青蛙房/1975年)
東宝の礎をつくる
映画草創期の人々の経歴は多彩である。森岩雄も小さい頃からの芸事好きで、それが昂じて最終的には映画製作者となったのであるが、最初のスタートは映画シナリオコンテストからである。
京華中学(黒澤明が在籍)から成蹊実業専門学校に進み、シナリオコンテストに入選し、そのご新進の映画評論家として活躍、シナリオが幾つか映画化させるうちに映画製作者となっていた。定職につかず、気ままに自分の道を歩む姿はまさに高等遊民であり、黒澤明も又然り。初期の映画人が多彩な活動を行っていたことが非常によく分かる。
この本を読んでいて気がついたのだが、日本映画が世界の映画祭で数多く受賞した時代を支えていたのは、森岩雄が生まれた1899年の前後10年くらいに誕生した人たちであるということだ。
国際的に評価の高い監督では、衣笠 貞之助1896年、溝口健二1898年、小津安二郎1903年、成瀬巳喜男1905年、黒澤明1910年である。プロデューサーでは、松竹城戸四郎1894年、東映大川博1896年、日活堀久作1900年、大映永田雅一1906年生まれである。
これらの人々は、堀久作が東京帝国大、大川博が中央大学であることを除けば、せいぜいが旧制中学出身である。これらの人々のあとに高学歴な監督やプロデューサーが登場するが、前の世代を追い抜くことは出来なかった。
やはり、創生期に集まる人々というのは冒険者たちなのであろう。「後生畏るべし」と言うが、フロンティアスピリットを持って新しい世界に飛び込んでくる人たちの情熱を追い抜くのは難しいようである。
また、歴史的な人々も大勢登場する。実際に森岩雄が会った人々であるが、チャップリンや早川雪舟をはじめ海外のスターやプロデューサーなど多彩。もちろん、日本の著名人も数多く登場する。東宝なので小林一三から山本嘉次郎、黒澤明、円谷英二はもちろんであるが、菊池寛や久保田万次郎などの文化人との交流も面白い。
森は洋行(昔はそういう言い方をした)した際にディズニースタジオ訪ね、その規模と設備に驚き、アニメの制作に対し「とても日本の国力では出来ないとあきらめた」とある。それで東宝は「線画」の道を歩まなかったのかも知れない。
ただし、この本高い。Amazonで買うと1万以上します。
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