右肩上がりのアニメビジネス1〜アニメ産業産業前史
音楽、映像、出版といった日本のコンテンツ産業の中でアニメはほとんど唯一とも思える右肩上がりの産業である。本格的商業アニメの嚆矢である劇場長編アニメ『白蛇伝』(1958年)以来一度も深刻な不況を体験したことがない。
日本でアニメ産業が本格的にスタート切ったのは東映動画が誕生以降ということに余り異論はないであろう。もちろん戦前から多くのアニメが製作されていたがビジネスとして継続性があったものは残念ながらほとんどない。
一方アメリカでは戦前前にディズニーをはじめ、「フェリックス」のサリバン、「ポパイ」のフライシャー、「バッグズ・バニー」のワーナー、「ウッディ・ウッドペッカー」のランツ、「トムとジェリー」のMGM、「マイティ・マウス」のテリーツゥーンなどのスタジオが競い合い全盛期を迎えていた。
皮肉なことに日本のアニメが発展したのは戦争によるところが大きい。それまで国産アニメを評価していなかった手塚治虫が制作を志すほど感動したアニメは潤沢な予算をつぎ込んだ戦意高揚映画『桃太郎海の神兵』(1945年)であった。軍というスポンサーのバックアップがあって初めて本格的な長編アニメを制作することができたのだ。
敗戦によってスポンサーを失った日本のアニメ業界は再び低迷の日々を過ごすようになる。敗戦による経済的な打撃もあり零細企業の集まりであったアニメ業界は教育やCF用のアニメ制作で糊口を凌ぐ日々が続いた。
戦後のアメリカでは相変わらずディズニーを中心に多くのアニメーションスタジオが活動を続けていたが1950年代後半からテレビの時代を迎えMGMをはじめとして映画系のスタジオが次々と閉鎖される。ディズニーもかつての冴えが見られなくなり1966年のウォルト・ディズニーの死によって衰退の道を歩みはじめる。1960年代中盤以降アメリカのアニメーション産業はハンナ・バーバラ・プロダクションを例外として長い停滞期に入った。
そんな状況の中、東映社長大川博が登場したのは日米のアニメーション産業史を見る上で非常に興味深い。
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