Vol.45〜第一部手塚治虫とマンガ〜第二章手塚治虫成功の秘密
手塚治虫を育てた地域環境③〈宝塚〉〜その1
郊外のユートピア、中産階級の楽園
手塚治虫が5歳から住みはじめた宝塚はもともと温泉地として名を知られていたが、阪急電鉄の創業者である小林一三の肝煎りによる開発で大正時代から観光地として急激に発展する。
手塚治虫が豊中から引っ越した昭和5年当時、宝塚はまだ川辺郡小浜村という小村にすぎなかったのにも係わらず、温泉や宝塚少女歌劇を中心とした賑やかな郊外リゾート地であり、同時に中産階層が住む新興住宅地でもあった。大阪などから移り住んだホワイトカラーが多く、小さな町ながらも「郊外のユートピア」であり「中産階級者」の楽園であった。
その頃の宝塚はまだリゾート地の側面を持っていたためか、その規模に比べ驚くほど多彩な娯楽、文化施設があった。温泉に付随する旅館やホテル、料理屋、みやげ屋をはじめとして、ルナパーク(レジャーランド)、動物園、熱帯植物園、子供遊園地、科学遊園地、昆虫館、映画館、ゴルフ場といった娯楽施設があり大正末期には年間100万人以上が訪れる程であったが、その中でも特筆すべき宝塚の文化施設は阪神間モダニズムを代表する宝塚大劇場と宝塚ホテルであろう。
コメント