Vol.39〜第一部手塚治虫とマンガ〜第二章手塚治虫成功の秘密
手塚治虫を育てた文化環境⑥〈伝統的物語文化〉〜その2
講談のフィクション性
立川文庫は明治末期の1911年から関東大震災前後まで、大阪にある立川文明堂から刊行された200点余りの小型講談本で、『一休禅師』『真田幸村』『大久保彦左衛門』『水戸黄門』といった歴史上の人物や、軍記、史記、あるいは創作を講談調に面白く脚色したものである。定価25銭(500円)という手頃さ、また読み終えて3銭を足して返すと新しい本がもらえることなどから当時の青少年の間にまたたく間に広がった。多くは一日で読めてしまえることもあって一度読み出すと止まらない状態になるが、その中でも大人気だったのは『猿飛佐助』などの忍者もので映画化されて忍術ブームを巻き起こした。
このような立川文庫の大きな特徴は、講談家が演じたものを速記者が聞き書きをした通常の講談本とは異なる「書き講談」にある。つまり、講談風の書き下ろし読み物であり、ある種の創作文芸なのである。立川文庫の場合、著者は「雪花山人」「野花散人」といった名前が挙げられているが、実際には大阪の講釈師玉田玉秀斎とその妻山田敬、長男阿鉄(おてつ)らの共同執筆で、玉秀斎が提供したネタを阿鉄らがまとめ、それに玉秀斎と敬が目を通すというシステムであったと伝えられる。多くの場合、阿鉄が玉秀斎のネタを元にしながら、初めから作品を書き起こしてしまうことが多く、その意味では創作といってもよいであろう。
そのせいか史実や事件を基に語られる講談の速記本よりかなりフィクション性が高く、時には荒唐無稽なストーリー展開となったが、現在のマンガに通じるその自由な発想が子どもたちの心を捉えたと思われる。その意味で大正期から戦前にかえ立川文庫は現在のマンガに極めて近い存在であったと言えるであろう。それもあってかマンガは講談の語り口から大きな影響を受けており実際その類似性を指摘する向きもある。
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