Vol.38〜第一部手塚治虫とマンガ〜第二章手塚治虫成功の秘密
手塚治虫を育てた文化環境⑥〈伝統的物語文化〉〜その1
物語文化の水準の高さの秘密
今まで見たように手塚治虫は漫画、紙芝居、小説、映画といったメディアからいろいろなものを吸収して育ったが、日本の伝統的エンタティンメントメディアにも日常的に触れていたことは、父の蔵書に「落語全集」などがあったことからも想像に難くない。おそらく日常に溶け込んだそれらの文化を意識するともなく吸収していたのであろう。
日本においては、すでに平安期に『源氏物語』という世界文学史上の金字塔となる作品を生んだ貴族分が存在し、世界最先端の文化レベルを誇っていた。しかし、こうした物語文化が貴族だけではなく庶民にも根づいていたところに日本の凄さがあり、それを支えていたのが世界でも類を見ない識字率の高さがである。
江戸時代、武士階級はほぼ100%、庶民でも半分以上読み書きが出来たという。武士はともかく江戸の町には庶民の子弟のための私的な教育機関である「寺子屋」が1,500ほどもあったといわれ、7〜8歳になると町の子どもたちのほとんどが近所の寺子屋に入学し、午前8時から昼食をはさんで午後2時まで学んだ。読み書きの他に算盤なども含めて通常5年間ほど学ぶので、江戸では庶民でも識字率は男女ともに80〜90%に達していたといわれている。
トロイの遺跡を発見したドイツ人のシュリーマンは、世界周遊の途次、幕末の日本を見聞しているが、「日本の教育はヨーロッパの文明国家以上に行き渡っている」とし、その識字率の高さに驚いている。その当時最先進国であったイギリスのロンドンでも識字率は20%程度であったから驚くのも無理はないであろう。
このような土台があったからこそ江戸時代以降急速に活字を中心とするメディアが急速に増えたのである。「浄瑠璃」「歌舞伎」「講談」「落語」「浪曲」といった実演メディアや、「浮世草子」「草双紙」「洒落本」「滑稽本」「人情本」「読本」「咄本」といった創作メディアが花開いた。ラジオやTVのない時代、こうしたメディアがニュースや物語を伝える器として活躍したのである。
そして、これらの中でも明治後期から昭和の前半に掛けて日本の子どもたちに多大な影響を与えたのが講談本立川(たつかわ)文庫である。
コメント