Vol.40〜第一部手塚治虫とマンガ〜第二章手塚治虫成功の秘密
手塚治虫を育てた文化環境⑥〈伝統的物語文化〉〜その3
アニメと講談の語り口に見る共通性
マンガが講談から受けた影響は、物語性もさることながらその語り口=描写にもあるようだ。そして、それはマンガから派生するアニメに端的に現れるようで、その辺の関係性について宮崎駿氏は次のように語っている。
「登場人物のデザインと性格だけではなく、空間と時間も徹底的にデフォルメされた。投手の手を離れた白球が、捕手のミットにたどりつく時間は、一球に込められた情念によって際限もなく延長され、ひき延ばされた瞬間が迫力のある動きとして、アニメーターにより追求された。せまいリングが広大な戦場として描かれるのも、その主人公にとって戦場に等しいのだ、というわけで正当化された。おかしなもので、語り口がどこかで講談と同じになっていった。間垣平九郎が愛宕山の石段を馬で馳せ登るくだりの表現と、これらのアニメーションの語り口のなんと似ていることか」(『出発点 1979年〜1995年』徳間書店)
この宮崎氏の指摘は講談とアニメ(マンガ)の関係性を考える上で実に示唆に富んでいるといえる。すでにマンガ自体に講談の語り口が入っているが、それをアニメ化することで誇張された動きが映像的に再現されるようになった。ある意味で日本のアニメは究極の立体漫談と言えるかもしれないが、この辺に日本のアニメにおける描写の特徴が隠されているのではないだろうか。
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