Vol.41〜第一部手塚治虫とマンガ〜第二章手塚治虫成功の秘密
手塚治虫を育てた文化環境⑥〈伝統的物語文化〉〜その4
講談から小説、そしてマンガへ
また、立川文庫と同時期にこの講談文化を広めたのが大日本雄辯會、現在の講談社が出版していた一連の雑誌である。講談社の創立者野間清治は立川文庫創刊と同じ年の1911年(明治44年)に雑誌「講談倶楽部」を創刊する。講談、落語、浪速節、美談、逸話等を掲載した「講談倶楽部」は当初好調であったものの、『講談世界』(1912年刊行)のような類似誌が出て売れ行きに影が差した。
その打開策として1913年、寄席の演芸としては一番人気のあった浪花節をテーマにした「浪花節十八番」を臨時増刊として出すが講談師から反発が起きたため、立川文庫のような「書き講談」方式活路を見出すこととした。
ところが「災い転じて福を成す」ではないが、「書き講談」の作家に長谷川伸、吉川英治といった後に国民的作家となる才能を起用したことが、結果的に従来の講談や人情噺に満足できなくなっていた読者のニーズに応えることになり、「講談倶楽部」は部数を大きく伸ばすことになる。
そして、「新講談」と呼ばれるようになったこの創作講談の手法が子ども向けの雑誌「少年倶楽部」(大正3年創刊)、「少女倶楽部」(大正9年創刊)、「幼年倶楽部」(大正26年創刊)へと引き継がれてゆくので、これらの雑誌にも講談の影響があるのはある種当然のことかも知れないが、「講談倶楽部」出身の吉川英治や山中峰太郎が子ども向けに書いて大人気となった『神州天馬夾』『敵中横断三百里』などの講談調作品は実際戦前の少年文化の基調を成しといってもよいであろう。
このように少年倶楽部や立川文庫は戦前の子どもならごく普通に触れる啓蒙メディアとして昭和の大衆文化を形成するのに大きな役割を果たした。その意味で講談調の物語はマンガに大きな影響を与えたのではないかと思われる。大衆物語メディアとしての講談は衰退するが、その語り口はマンガやアニメに確実に引き継がれた可能性は大きい。
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