Vol.31〜第一部手塚治虫とマンガ〜第二章手塚治虫成功の秘密
手塚治虫を育てた文化環境④〈映画〉〜その2
娯楽の王座
戦前において圧倒的なメディア力で娯楽の王座に就いた映画であるが、それには優れた経済性も味方していた。昭和初期の映画入場料は現在と違い様々なグレードがあって、昭和8年でいえば一流封切館でのロードショー料金が50 銭(1,000円)、二番館、三番館で20〜30銭(約400〜800円)であった。封切りではないが400円程度で映画を見られるというのは、今のレンタルビデオに近い料金感覚であろう。
そのせいか実際昔は実によく映画を見ていた。映画全盛期の1958年(昭和33年)には11億3,000万人もの映画動員数があったが、これは国民一人当たり平均年間12.3回も映画を見ていたことになる。現在の10倍以上の数字であるが、戦前であっても現在の2〜5倍は映画を見ていた。
また、映画の常設館も映画人口最盛期の昭和33年には全国7,067館と現在の10倍(スクリーン数ではなくシネコンも含む映画事業館数)もの映画館があったが、これは人口1万3,000人につき一軒あったことになる。人口比にすると現在の3倍から6倍の映画館があったのである。
都市ではちょっとした盛り場には必ず映画館があったが、かなり田舎の町にもそれがあった。手塚治虫が昭和5年に豊中から移り住んだ宝塚は、まだ川辺郡小浜村といっており人口は一万人にも満たなかったが、すでに「寶塚キネマ」という映画館が存在していたのである。
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