Vol.37〜第一部手塚治虫とマンガ〜第二章手塚治虫成功の秘密
手塚治虫を育てた文化環境⑤〈アニメ〉〜その2
手塚治虫をアニメに向かわせた『桃太郎・海の神兵』
日本のアニメの父と呼ばれる政岡憲三(1989年〜1988年)は戦争がはじまり撮影用フィルムが限られてくると、自ら主宰する日本動画研究所から協力関係にあった大手の松竹に製作課長として入社し、真珠湾攻撃をテーマとした『フクちゃんの奇襲』(昭和17年)、『フクちゃんの増産部隊』(昭和18年)、そして傑作『くもとちゅうりっぷ』(昭和18年)と立て続けに監督した。
また、政岡と並んでアニメ界の貢献者である瀬尾光世は海軍省から漫画映画製作の発注を受け、所属する芸術映画社で日本初の長編アニメ『桃太郎の海鷲』(昭和18年)を監督した。そして、その後製作会社の統合もあり瀬尾は松竹に入社することになり、最初に手がけたのが海軍省からの委託作品である『桃太郎・海の神兵』(昭和20年)であり、当時の実写劇映画並みの予算を持つ大作であった。
そして、手塚がこの作品に感動した背景には瀬尾がシンガポールを占領した日本軍が持ち帰ったアメリカ映画の中にあったディズニーの『ファンタジア』や『白雪姫』にショックを受け、それ以降のアニメづくりの指針としていたところにあると思われる。この運命的なアニメとの出会いについて手塚はこう語っている。
「ぼくは焼け残った松竹座の、ひえびえとした客席でこれを観た。観ていて泣けて泣けてしょうがなかった。感激のあまり涙が出てしまったのである。全編に溢れた叙情性と童心が、希望も夢も消えてミイラのようになってしまったぼくの心を、暖かい光で照らしてくれたのだ。
『おれは漫画映画をつくるぞ』
と、ぼくは誓った。
『一生に一本でもいい。どんなに苦労したって、おれの漫画映画をつくって、この感激を子供たちに伝えてやる』
(『手塚治虫エッセイ集1』/講談社刊)
戦争末期にこういったアニメがつくられたこと自体に驚くが、アニメ業界にとって戦争は決してマイナスとはならなかったということである。戦争がきっかけで初めて本格的な長編アニメを制作することができたのだ。
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