手塚治虫の天賦の才を支えた資質①〈向上心〉その3
常にイノベーション
手塚治虫が常に挑戦していたのは、実は自らが創り上げたマンガのデファクト・スタンダードであった。
手塚が戦後のマンガの規範をつくり上げたことは間違いないが、そこから劇画という新種が出現したのは想定外であったろう。そして、それが“マンガの元祖”となってしまった手塚を悩ませるのである。
1960年代、劇画の台頭によって時代遅れと言われはじめた手塚は一時ノイローゼにかかってしまうほど過酷な精神状況に陥る。そして、今までの手法をかなぐり捨てて劇画に挑戦し新しい表現を模索するのである。
手塚に限ったことではないが、一般的に加齢を重ねながら、子どもに向けてマンガを描き続けることは非常に大変な作業である。年を取るに連れ、自然と子どもの在り方や流行がわからなくなってくる。生理的についてゆけなくなるのである。
ミュージシャンを見ればわかるが、年を取ればどんなに若者の気持ちや好みがわかっているつもりでいてもズレが生じるものである。その意味で、手塚治虫が1970年代から徐々に読者を青年層以上にシフトしていったことは、本人にとっても読者にとっても幸せなことであった。
とはいえ、手塚が本当に凄いのは次第に対象を青年層にシフトさせ、『奇子』(1972年)や『シュマリ』(1974年)など描きながら、同時に『ブラックジャック』(1973年)、や『三つ目がとおる』(1974年)といった子ども向けの作品も成功させていることである。
大人向け作品と並行しながら行われたこれらの子ども向け作品をヒットさせた事実に改めて脱帽せざる得ない。常にイノベーションを志す姿、これが手塚治虫の本質なのである。
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