手塚治虫の天賦の才を支えた資質②〈体力〉その1
文弱の徒のイメージを覆す
手塚は自分の幼年時代から少年時代にかけて、身体が小さくよくいじめられその上運動も不得意であったと書いている。そのため、どうしてもひ弱な感じを受けるが、生涯スポーツとは縁がなかった割に少年期以降の体力は相当なものであった(類い希なストーリー・テーラーであるせいか、話を面白くするために多分に創作している部分があると感じられる)。
例えば北野中学のマラソン大会で「なんと続いて手塚君が入ってきた記憶がある。だから一学年中二百数十人中二十何番かで入ったはずである」(泉谷迪『手塚治虫少年の実像』人文書院)という同級生の証言にある通り、痩身であったが壮健で心肺機能がかなり強かったようだ。
また、手塚が昭和22年初めて東京に出て来た時に、九段坂から音羽の講談社を経て赤羽の知人を訪ね上野桜木町まで(直線で約17キロ)歩き通したとある。昔の人はよく歩いたというが、19歳の若さとはいえ立派な健脚の持ち主である。
さらに、中年期に入った手塚は、「しかし、想像していたより手塚さんは遙かに大柄で、がっしりとして、大きく見えた」(赤川次郎『手塚治虫がいなくなった日』手塚プロダクション+村上知彦編/潮出版社)というような印象を与えていた。実際身長が170センチ、体重75キロあったというから、昭和一桁生まれとしてはかなり大柄であったといえるであろう。
手塚の父粲は85歳、母文子は74歳でまで生きた。明治生まれとしては長命な方であろう。祖父の太郎も70歳まで生きた。文久生まれということを考えるとこれまたかなりの長命であろう。従って手塚家は少なくとも平均寿命の家系といってもよく、手塚が60歳で亡くなったのは働き過ぎというより言葉が見つからない。
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