Vol.59〜第一部手塚治虫とマンガ〜第二章手塚治虫成功の秘密
手塚治虫を育てた環境④家庭環境〜父親手塚粲(ゆたか)その4
住友伸銅鋼管に異動
最初は住友倉庫に入社した粲だが、その後住友伸銅鋼管(現住友金属鋼管カンパニー特殊管事業所)に異動になる。住友は財閥系としては珍しく、別子銅山を中心とした銅精錬業を経営の基盤としてきたが、住友伸銅鋼管はその中核企業であり、粲が入社した大正10年は、第一次世界大戦の軍需景気の反動が出はじめた時期であった。
その後、大正15年までの慢性不況とワシントン軍縮会議による海軍の軍縮で大正13年を除き住友伸銅鋼管の売上は減少し続けたが、昭和に入り艦船用品、陸海軍や民間の航空機用品などの軍需注文が増えたことで著しく回復した。特に社運をかけて開発したジェラルミンが航空機材料として注目されるようになり、一般市況不振にもかかわらず昭和3年下期には設立以来、初めて五分の株式配当が出来るようになった。
昭和5年、ロンドン軍縮によって会社は再度大打撃を受けることになるが、戦時色が濃くなるに連れ次第に軍需が活発になり、海軍航空機のプロペラなどの発注が増大。昭和10年に住友伸銅住鋼管と住友鉄鋼が合併して住友金属が誕生、戦時体制となった昭和13年にはプロペラを中心とした航空関係受注が更に増え昼夜操業を余儀なくされるほどになった。そして、太平洋戦争勃発によって軍需が急激に増えると受注、販売が激増するのである。
こうして見ると住友金属は軍需を中心とした企業であることがわかるのであるが、手塚治虫が父親に対する言及が少ないのはひょっとしてこの辺にも原因があるのかも知れない。奇しくも宮崎駿氏の父親も戦争中戦闘機を生産する会社の役員をしていたが、やはり父親に対する目は厳しいものがある。
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