Vol.60〜第一部手塚治虫とマンガ〜第二章手塚治虫成功の秘密
手塚治虫を育てた環境④家庭環境〜父親手塚粲(ゆたか)その5
現在とは比べものにならないホワイトカラーの地位
それでは、太郎から代替わりした手塚家の経済レベルがどのようなものであったのか見てみよう。
粲が働いていた住友伸銅鋼管は住友財閥の中心企業であったが、その社風はつつましかった。住友系企業の社風は財閥系にしては地味で、真面目でよく働く社員が多かったと言われており、粲もそのような社員の一人であったろうが、つつましいとはいえそこは財閥企業であり、さらに大卒エリートの少数組に対してはやはり相応の待遇があった。
月100円で夫婦二人が何とかやって行けたこの時代における大企業の初任給といえば、大正15年の三井物産の場合、官立・東京高商(現一橋大)・早慶が80円、その他の私大・高商・工高が70円、専門学校55円、中卒35円であった。三菱合資などの財閥系、日本郵船や東京電灯(東京電力)なども大体60〜70円の初任給と同様である。
一方、昭和2年と見られる住友合資の初任給は「帝大、商大」が80円、「神戸高商、商大専門部」が70円、「早慶、三年生高等商業」が60円、「甲種商業、中等程度」が35円であったから、大正10年に入社した粲の初任給は60円程度であったと思われる。しかし、この他に年数か月のボーナスが支給されたので、初年度から優に月100円のラインに達していたであろう。
また、大卒は昇給も早く、住友合資の場合中学校卒業程度が年一回3円の昇給なのに対して、専門学校以上は10円から15円であった。従って、入社後7〜8年に手塚治虫が生まれた頃には年収3,000円前後と推測され、相応の余裕が持てる生活であったと思われる。
さらに、その当時大卒ホワイトカラーは大体入社後10年で主任、あるいは係長になり、その役職手当も付いたので中流階級の仲間入りをする。手塚粲の場合、入社後10年には宝塚の父親の家に引っ越していたので一段と余裕のある生活を送れるようになっていたのではないか。
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