Vol.61〜第一部手塚治虫とマンガ〜第二章手塚治虫成功の秘密
手塚治虫を育てた環境④家庭環境〜父親手塚粲(ゆたか)その6
手塚家の生活
手塚治虫が生まれた頃、住友伸銅鋼管は大正期の不況の反動から立ち直ったばかりであったが、またすぐにロンドン軍縮があり景気は後退した。
しかし、昭和6年(1931年)の満州事変以降、次第に軍事色が濃くなり、それにつれて会社の業績も次第に伸びて行く。粲も忙しい日々を送っていたと思われるが、「一家の生活水準は高く、家族で近くの宝塚新温泉や歌劇に出向き、遊園地で遊んだ。クリスマスには宝塚ホテルで食事をするハイカラな家庭。当時の宝塚はピアノの普及率が全国一で、手塚は大学生時代、隠し芸でピアノの独奏を披露したこともあった」(前掲神戸新聞)という余裕ある暮らし振りであった。むろん、このような余裕のある生活が幼かった手塚に与えた影響は大きい。
例えば手塚家には父親が買った岡本一平や北沢楽天の全集から海外の漫画までライブラリーがあったが、「一平全集」(先進社)の価格は全15巻で18円、今なら1冊2,400円、合計36,000円の全集である。
そういった漫画の他に、1冊1円全38巻の新潮社版「世界文学全集」、やはり1冊1円全76刊のアルス出版「日本児童文庫」などの円本全集、落語全集や講談全集といった大衆芸能に関する全集、絵画、音楽などの芸術分野の書籍、さらに「キング」「アサヒグラフ」「新成年」といった一般雑誌も購読していた。
また、書斎には漫画コーナーがあり、『のらくろ二等兵』『のらくろ軍曹』『漫画常設館』『漫画の缶詰』『冒険ダン吉』『長靴三銃士』、1冊1円の講談社のマンガや1冊75銭の中村書店「ナカムラ・マンガ・ライブラリー」が200冊もあったという。さらに講談社の絵本シリーズなどもあり、息子には講談社の「漫画倶楽部」などの少年雑誌を定期購読させていたという環境であった。
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