〈手塚治虫とアニメ〉アニメの繁栄を築いた手塚治虫
手塚治虫以降のアニメ1〜不可能と思われていたTVアニメ
1953年(昭和28年)から放送が開始されたテレビは、1960年(昭和35年)の今上天皇ご成婚をきっかけに急激に普及しマスメディアの中心となってゆく。そして、それと相前後するように映画産業は60年代中盤以降長期的な停滞期に入り、最大7,457あったスクリーンが急速に減りはじめる。
1963年遂に日本初のTVアニメシリーズ『鉄腕アトム』がはじまるが、アニメ産業にとってこの作品の持つ意味は限りなく大きかった。日本のアニメ産業が発展した原動力はTVアニメにありその先鞭をつけたのが『鉄腕アトム』であるが、中でも最大の功績は、前にも述べたが何よりもそれまで不可能と思われていたTVアニメを実現させたところにあるだろう。
その当時のアニメ製作は最大規模の東映動画で、80〜90分の劇場アニメつくるのに延べ300人以上のスタッフを動員し年に一作つくるのが限界であった。そこで1960年代以降は年間二作の長編劇場アニメの制作を目指し、監督や脚本家の他に原画5名、第二原画10名、動画30名、トレース10〜15名、彩色30名、計90名余りの作画スタッフの生産ラインを2班つくり生産性を上げようとしたが、それでも結果的には年一作つくるのが精一杯であった。
ところが、TVアニメは生産量のケタが違う。年間約50作、30分番組のCFなどを除いた正味制作分数を20分としてもトータル1,100分の映像を制作しなければならない。これは1962年当時における日本の年間アニメ総生産分数の3.5倍以上である。
TVアニメでは最低でも四〜五班の作画班を組んで分業する必要があるが、東映動画でさえ二班確保するのが精一杯の状況において、その倍以上の作画スタッフを確保するなど物理的に不可能と思われていた。
何せアニメーションの生産分数は1960年で208分、1961年266分、1962年308分と徐々に増えてはいるものの、TVアニメに換算すればワンクールをやや上回る程度の制作分数に過ぎない。
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