右肩上がりのアニメビジネス3〜『鉄腕アトム』スタート
1950年代後半から1960年代初期にかけて東映動画一色のアニメ産業界であったが1963年に大きな変動が生まれる。テレビアニメの出現である。アニメ産業に手塚治虫率いる虫プロが参入したのだ。
その当時日本で長尺もののテレビアニメを制作するのは無理だと思われていた。アメリカでさえ30分フォーマットのテレビアニメ番組がスタートしたのは1950年代末からである。1957年に設立されたハンナ・バーベラ・プロダクションによってテレビアニメが量産されるようになるのだが、創立者であるジョー・バーバラとウィリアム・ハンナがその前に在籍していたMGMで制作していた劇場短編アニメ『トムとジェリー』は年間合計40分ほどの生産量であった。それを考えると、正味制作時間20分強として年間50作=1,000分以上のシリーズを制作するなど夢のような話だ。
しかし、彼らにはシリーズアニメを制作に対する展望があった。以前『トムとジェリー』のデモ・リール制作時に試した「リミテッド・アニメーション」という省略手法をはじめとして30分もののアニメを長期間制作する上でのストーリー展開やアクションに対するビジョンを予め持っていた。またメジャースタジオのアニメ部門が次々と閉鎖されたため優秀な人材を容易に獲得できたこともあって3年後には毎週2時間半ものアニメーションを制作できるラインを持てるようになった。
アメリカでは比較的初期からフォードの分業制度を制作工程に取り入れたり、彩色などの付加価値の低い作業をメキシコにアウトソーシングする制作効率の追求が行われてきた。東映動画は設立前にアメリカの制作システムを学ぶため人材を長期出張させている。
それに対し『鉄腕アトム』の虫プロはほとんど白紙の状態で制作に突入したように見える。東映動画の制作手法を取り入れるのは物理的に不可能であるし、かといってリミテッド・アニメの歴史も浅く情報もそれほどない。それでも手塚が製作に踏み切ったのは超人的なマンガ制作のペースをアニメにも展開できると考えたからかも知れない。もちろん画家部門の長者番付で何度も1位になった資力があり、いざとなれば「身銭」を切って責任を取る覚悟があったからであろう。
アトムが失敗していたら「蛮勇」と言われたはずである。経済的な損失も決して小さなものではなかったはずだ。誰も出来ないと思っていたテレビアニメに個人の力で果敢に挑戦した手塚治虫のフロンティア・スピリットは称賛されてもいいだろう。
『鉄腕アトム』はその制作課程で次々とオリジナルの省略手法が開発してゆく。その意味で日本は1963年以降独自の制作システムの道を歩みはじめたといってもいいであろう。
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