Vol.14〜第一部手塚治虫とマンガ〜第二章手塚治虫成功の秘密
なぜ手塚治虫が戦後日本のマンガ界における屹立した存在になったのか。なぜ「マンガの神様」とまで呼ばれるようになったのか。それは様々な要素がからみあっての結果であろうが、ここではその秘密について探ってみたい。まず手塚を取り囲む環境がどのようなものであったのかについて言及してみたい。
1手塚治虫成功の秘密〈環境〉
10代中盤にして〈手塚メソッド〉を確立
手塚治虫がこの世に生を受けたのは、今から80年程前の1928年(昭和3年)であるから世代的には「戦中派」ということになる。そんな手塚がマンガを描きはじめたのは戦争の陰が次第に濃くなりつつある1935年(昭和10年)大阪府立池田師範付属小学校に入学して以降のことだ。初めてストーリーのあるマンガ『ピンピン生チャン』を鉛筆で描きはじめたのが3年生の時であるが、本格的に取り組むのは中学に入ってからである。
太平洋戦争がはじまった1941年(昭和16年)、手塚は大阪の名門旧制北野中学に入学、すぐに昆虫図鑑の模写や自ら採取した昆虫の描写に熱中するが、2年生の後半からマンガ執筆を再開する。そして、卒業するまでの13歳から16歳の間に、戦後子どもたちを熱狂させることになる『ロストワールド』や『メトロポリス』の習作を描き、その原稿はノート15冊、枚数にして3,000枚以上にもなった。ここで注目すべきは手塚が10代の中盤までに既に自分なりの作画スタイルを確立していたということである。
一般的にマンガ家のデビューは早い。石森章太郎、佐藤まさあき、今野裕子などは16歳でデビューしており、もし戦争がなければ手塚治虫は桑田次郎(13歳)やきたがわ翔(13歳)に並ぶU−15のプロマンガ家になっていたかも知れないが(実際にはのちの毎日小学生新聞となる少年国民新聞に『マアチャンの日記』を連載して18歳でデビュー)、ここで重要なのは手塚が習作を開始した13歳から16歳までの間に創作スタイルの基本を確立していいたということである。ということは、この年齢までにすでにマンガを描くために必要な知識や教養、知識などが蓄積され、ある程度メソッドが出来上がっていたとことが推測されるであるが、、もし習作以前の手塚を探ることでその成功の秘密の一端を伺い知ることが出来るのではないか。
そこで本章では、手塚が習作に至るまでに大きな影響を受けたと思われる公私に渡る環境を、(1)時代・社会環境、(2)文化環境、(3)地域環境、(4)家庭環境の四つに分け、手塚に与えた影響について各々探ってみたい。
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