Vol.36〜第一部手塚治虫とマンガ〜第二章手塚治虫成功の秘密
手塚治虫を育てた文化環境5⑤〈アニメ〉〜その1
もちろんアニメも大好きだった
毎日テレビでアニメが見られたわけでない昭和初期の子どもにとってそれを見る喜びは今より数段強かったであろう。親に連れられていく映画館で上映されるほんの数分間、その瞬間を子ども達は待ちわびながら生活を送っていた。そして、そんな子ども達の間で圧倒的な人気を誇っていたのは「ミッキーマウス」「ポパイ」「ベティブープ」といったアメリカ生まれのアニメであった。日本製アニメもあったものの不人気で、子どもたちの間では海の向こうのキャラクターに人気が手中していたのである。
それらの中でも一番人気があったのはもちろんディズニー作品であった。そのウォルト・ディズニーの成功のきっかけとなったのは、世界初と言われているサウンドトラック付きのトーキーアニメーション映画『蒸気船ウィリー』であるが、その上映は奇しくも手塚治虫が生まれた1928年のことであった(初上映の日も手塚の誕生日のわずか15日後の11月18日なのでミッキーマウスも今年生誕80周年である)。
この映画は圧倒的なクオリティで絶賛を浴び、ミッキーマウスはたちまちのうちに子どもの人気者となったが、ディズニーはこの成功に留まることなくその後も前進を続け、劇映画に先んじて三原色カラー(テクニカラー)に挑戦し、シリー・シンフォニー (Silly Symphony)シリーズの『花と木』(1932年/封切名『森の朝』)を製作、アカデミー短編アニメ賞を受賞しミッキーマウス=漫画映画という時代をつくった。もちろん日本でも大人気で、手塚治虫がもの心着いたときにはすでに子どもたちのアイドルであった。
その当時、ディズニーの対抗馬であったのがフライシャースタジオであった。ほとんどのアニメがディズニーの亜流であった中で、NYを拠点とするこのマックスとディブのフライシャー兄弟のスタジオは、サイレント映画時代から「ベティブープ」(アメリカのアニメ史上、珍しいセクシーキャラ)や「ポパイ」(今でいうなら「どつき漫才」といったバイオレンスキャラか)といった非ディズニー的キャラクターを擁し、子どもたちの足を映画館に運ばせたのである。
フライシャースタジオは、その後も長編大作『ガリバー旅行記』(1939年/日本公開昭和23年)、アカデミー賞ノミネート作『スーパーマン』シリーズ(1941年〜1943年/戦後公開)、傑作『バッタ君町に行く』(1941年/日本公開昭和26年)などを製作しアニメ製作者としての手塚をはじめとして宮崎駿など日本のアニメ界に大きな影響を与えることになるのである。
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