『世間さまが許さない!』その2(岡本薫/ちくま新書740円税別)
相手も自分と同じことを考えているという幻想
では「自由と民主主義」が成立するのはどういう社会か。それは内面の自由が保障されている社会である。社会的ルールには従うが内面ではどのような思想信条、モラルを持とうが自由であるというのがそれである。
「神のものは神のものに、カエサルのものはカエサルに」と言ったキリストであるが、ヨーロッパでは神(教会)が人間の内面を含め全てを支配する時代が続いた。その後、宗教改革に伴う宗教戦争の勃発などを経て信仰の自由が確立されるのであるが、これがきっかけとなり言論の自由などに近代的な内面の自由や個人(自我)確立を経て民主主義の成立へと向かうのである。
岡本氏は日本では西欧で言うところのキリスト教に相当するものが「世間様」であると言う。そして、日本人はまだ人間の内面まで立ち入って規範する「世間様」と深刻に相対していない状態にあり、従って西欧的な「自由と民主主義」とは本来相容れない。なるほどその通りである。
だが、氏はそこを逆手に取って「世間様」主義で行ったらどうかと提案する。決して開き直った訳ではなく、「世間様」を日本のコモン・ローとしてしっかり規定し機能させれば機能不全気味の国会も必要なくなるとまでさえ言うのである。不磨の大典である聖書やコーランよりは融通無碍で柔軟な「世間様」主義コモン・ローこそこれからの時代に力を発揮するはずであると。
アニメにおいても海外とのビジネスが不可欠となった現在、自らを相対化する必要に迫られている。なぜなら相手は自分たちと同じように考えていないということを前提としなければならないからである。それは柔道を見ればわかる。
日本の国技である柔道。しかし、いまオリンピックなどで展開されている柔道は「ジュードー」とも呼ぶべきもので、もはや日本人が思うところのスポーツではない。日本において柔道は「道」でありモラルを伴うものであるがゆえ、日本人同士の試合は美しい。
しかし、外国人には取ってはルールの下で闘う柔道があるのみであるでモラルは関係ない。だからルールに書かれていない行為に対する規範が働かないのでアッと驚くジュードーが登場する。「それをやっちゃお終いだ」という感覚がそもそもない。
日本のアニメが海外で置かれている立場もジュードーの世界とさほど変わらない。ルールに書かれてなければ何でもありなのだ(というかルールも確立されていない)。それを理解するために、日本人はまず自分たちのモラルとルールについて自覚的でなければならないであろう。岡本氏のこの本はそれを考える上での必読の書である。
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