うる星やつらの想い出1〜プロデューサー落合茂一
私が社会人となって初めて在籍したキティレコードというのは非常にユニークな会社で、レコード部門には小椋佳、高中正義、RCサクセション、安全地帯、プロダクション部門には上田正樹、バービーボーイズ(レーベルはエピック)、久保田利伸(ソニー)などがいたが、同時に村上龍の処女作『限りなく透明に近いブルー』、実写版『ベルサイユのバラ』、沢田研二主演『太陽を盗んだ男』(沢田研二が日本橋の東急から1万円札をばらまくシーンのエキストラに動員されたが映ってなかった)などの映画製作を行っていた。レコードメーカーが映像に取り組んださきがけである。
そこに突然アニメが登場するのである。それも『うる星やつら』である。そのきっかけは私の師匠筋に当たる落合茂一がいたからであった。
落合はもともと脚本家志望で日芸を卒業したあとさいとうプロに努め、そこで一緒に働いていた小池一夫と一緒に独立するも、その後袂を分かちタツノコプロなどを経てキティレコードに入社する。そして、そこで提案したのが劇画村塾の生徒であった高橋留美子の原作『うる星やつら』のアニメ化であった。
アニメ化に当たって制作会社として起用したのが創業間もないスタジオぴえろであった。社長の布川氏の推薦で監督となったのが若き日の押井守氏である。この落合という人間はかなり強烈な個性の持ち主というか頭に血が上りやすく、アフレコの現場などでしばしば押井守氏と衝突している。
「押井ちゃん、直してよ、ここ」って言う。すると彼(押井守)は、
「いえ、直せません」
(『僕のプロデューサーかけだし日誌』/落合茂一)
というようなやり取りが日常的にあったようだ。はっきりものを言う(言い過ぎる嫌いはあったが)いわゆるプロデューサーらしいプロデューサーであった。うる星やつらをこんなにしてしまった(マニア向けにしてしまった)のは押井守氏のせいだと時々憤っていたが、後年もう一度仕事をしたい監督も押井守氏だった語っていた。落合はガンのため1999年死去。その人となりについては『僕のプロデューサーかけだし日誌』(発行トライアングル)に詳しいがおそらく今は手に入らないであろう。
そういう経緯で1981年からうる星やつらがフジテレビでスタートした。
この作品がアニメビジネスに与えた影響としては以下のようなことが考えられる。
1) レコード会社という新しいプレーヤー参入のさきがけ
2) 制作部門を持たないプロデュース(元請け)会社のさきがけ
3) マニア向けアニメビジネスの雛形をつくった
などであるが、3)を象徴するのが「うる星LD50」である。